まちづくり?
 このページは、日常の都市計画業務の中で感じたことをつれづれなるままに書き記したものです。  個人的独断的な意見ですのでそのつもりでご覧下さい。
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■まちづくりと地域住民
1.なぜ「住民参加」か?


1)「住民参加」の背景

 いつ頃から「住民参加」と言われるようになったか…。
 恐らく、昭和50年代、安定成長期と呼ばれる時代に入る頃、市民意識の成長と共に、「高度経済成長期への反省から地方都市や身近な生活環境が重視されるようになって」、あるいは、「高度経済成長期の計画先行ではなかなか公共事業が進まなくなって」、言われるようになってきたようです。
 それ以前にも、総合計画の策定には、住民意向調査等により(必ずしも無視されていたわけではないという程度で)住民意向が考慮されてはいたわけですし、区画整理事業などでは住民意向が前提となっていたわけですが、直接、「計画づくり」のために住民の意向を把握したり、住民と共に計画づくりを進めようという考え方が定着するのは、最初の中心市街地活性化計画を具体化しようとしていた頃のように思われます。
 そういう経緯を踏まえると、


◆「実行性のある計画をつくっていくためには、住民の意向を十分踏まえて進める必要がある」という認識がそのスタートにあり、

◆当時のまちづくりの重要課題の一つであった中心市街地の活性化のためには商業者自らのまちづくりが不可欠であることから、商業者を中心とする住民の意思をまちづくりに集結・誘導していく 等のために、

「住民参加」が定着してきたように思われます。

 その後、住民参加による計画づくりの認識やその方法が定着していくにつれて、地区の事業推進のためだけではなく、広域の計画づくりにも「住民参加方式」として一般化されてきたようです。
 
 そして、その後その方向は、

◆一つは、中心市街地等特定地区の計画を市の政策として位置づけるために「委員会」方式として
◆一つは、住民の多様な意見をまとめていくための方式=ワークショップ方式=として

各地の計画づくりに普及していったように思われます。


2)「住民参加」がめざすもの

 生活水準の向上とともに人々の関心はより豊かな生活環境へと向かい、主体的な市民の成長とともに「地域住民の関心がまちづくりに向かっていくことは必然ですし」、都市の成熟化、人口の高齢化とともに「行政の施策の重点が、まちづくりから福祉に向かうのも必然です」から、まちづくりに地域住民の果たす役割が高まっていくのも必然的です。
 したがって、今後のまちづくりに「住民参加が不可欠」だとすれば、具体的には、それによってで何が実現されるべきなのでしょうか?
 私は次のように考えています。

◆「まちづくり計画」に地域住民の叡智を結集するとともに、計画を地域住民に認識・共有されたものとし、計画の実行性を高める。
◆住民参加を通して、「まちづくり計画」を実際に推進する(事業)主体を育む。
◆事業等の推進者としてだけでなく、事業を運営管理したり、地域環境を維持し続ける「持続する地域を支える主体」を育成する。

 しかも重要なのは、それが個人の集合ではなく「《組織体》として、時代の変化に対応しつつその機能を維持し得るものにしていくか?」ということにあると考えています。


3)住民参加の過程で何を考慮すべきか

 そのため、これからの「住民参加」は、単に「委員会方式」「ワークショップ方式」にとらわれず、次のような視点を含み込んだ展開が求められているように思われます。


●計画づくりの過程の中では
・同じ地域に居住する住民の中に、いかに様々な考え方があるかを理解してもらう。
・どのようにしたら、地域住民の叡智を計画に結集していくことが可能か?また住民にもわかり受け取りやすい計画とすることが可能か?
・様々な実践の中で、「計画づくり」「まちづくり」に住民が果たしうる役割としてどのようなものがあるか考え、理解してもらうことができ、それを住民共通の認識とすることが可能か?
・まちづくり計画のプロセスを体験する中で、どのようにしたら、効果的に住民の叡智をを集約することができ、計画としてとりまとめるにはどのようにしたらよいかを考えてもらえるか?

●事業化を目指した中では
・どのようにしたら、事業主体としての条件を理解し、自ら事業主体となるための覚悟を促すことが可能か?
・どのようにしたら、この機会を事業主体たり得る組織形成の契機とすることが可能か?

●地区の持続的発展を目指した中では
・どのようにしたら、地域住民がお互いの顔を知り、交流の機会としていくことが可能か?
・どのようにしたら、地区の持続的管理運営のための組織化の契機とすることが可能か? 等々

 こんなことを書いてきたのは、私にはどうも、最近「住民参加」があまりにも形式化されすぎているのではないか?という懸念があるからなのです。ただやれば良いというものではないでしょう。



2.計画づくりと住民参加


1)「まちづくり計画」と住民参加

 一般的には「計画」は以下のような構成またはステップがあり、それぞれの段階における「計画と住民との係わり」があると考えられます。


(1)現状及び課題の把握

 まちづくりのスタートとなるまちづくり課題を住民共有のものとしていく段階です。

・住民の意向を把握するためには、アンケート調査、ヒアリング調査、住民会議等様々な方法があります。大抵の方法は以前から採用されていたものです。
・「まち歩き」等による「問題・課題図の作成」は、とりわけ「住民参加」の言葉とともに採用されてきた方法だと思われます。

 いずれにしても、多様な住民の意向の中からまちづくり課題を共有するために工夫されてきた方法です。


(2)計画づくり(計画の目標・方針~計画内容の絞り込み)

 まちづくりの基本方向や目標、まちづくりの進め方に関する基本的な考え方等を、住民共有のものとしていく段階であり、さらに実施すべき事業等がリストアップされ、計画に盛り込む事項を絞り込んでいく段階です。

・従来は、(1)の段階を踏まえ、コンサルタント・行政等が原案をつくり、それをたたき台として修正していくのが従来の方法でした。しかし、最終的には、原案からそう大きく変更されないものに落ち着くのが一般的な結果です。

・「住民参加」がより強く求められるようになると、住民の代表が原案づくりに参加したり、計画づくりに住民がグループに別れるなどして皆で原案を作成するような方法がとられるようになりました。特にこうした住民と協働する計画づくりは「ワークショップ」と呼ばれ、様々な方法が工夫されるとともに、そのための専門家(コンサルタント)も生まれてきました。

・オーソライズの必要性が高いも計画の場合には「委員会」を中心として計画をつくっていく場合もありますし、「ワークショップ」と「委員会」を併用して進めることもあります。

・いずれにしても、こうして作成された「計画原案」をさらに広く市民に示し、その意見を盛り込んで最終的な「計画」としていく方法が近年の一般的方法となりました。

 しかし、まちづくり計画には、都市マスタープランのように、「住民参加」による計画づくりが求められている「計画的性格」の強いものもあり、土地区画整理事業や再開発事業のように、個人の財産に直接係わる「事業」や、公園整備のように個人の財産とは直接関係しない参加の任意性の強い「公共的な事業」などに係わる様々な「計画」があります。 住民参加においては、計画の性格によって、それにふさわしい方法というのは当然異なってくる筈です。



(3)実現に向けて

 しかし、住民参加の最も重要な点は、それが「計画づくり」のためにあるのではなく、むしろ計画の内容をいかに実現していくか?それを住民と共に具体化していくこと、その際、住民と協働してまちづくりを進めていくためにこそあるのではないでしょうか?
 そのために計画段階から参加を必要としている筈なのです。それが「計画づくり」の中にどう盛り込むことが出来るかを考えておく必要があると思われます。



2)「住民参加」の懸念

 ところが、時代が進み、「住民参加」が一般化し計画づくりの前提的条件となるにつれ、徐々に形式化したり、「住民参加」に責任を転嫁したりしてはいないかと、懸念されるのです。
 例えば次のような点はいかがでしょうか?
# これらはもちろん、それぞれ状況が異なるものですから、関係者が「自分の場合は違う」と言い
# 切れればそれで良いのですが…。



・住民参加をどのように進めるべきか、十分吟味して進めているか?

 住民参加とはあくまでも計画づくりの手段であり、もともと「こうすべきである」という定見があるわけではありません。したがって、住民意見を尊重するために、住民参加方式によって住民と共に考えていく必要がある、ということで「目的・手段等、十分な吟味をしないまま先例のやり方を踏襲したり、ただ話し合いの場を持てばよいというような運営をしたりはしていませんか?」
 住民参加の方法は多様です。ただ住民の言いたいことをきちんと聞く場が有りさえすれば良いのかもしれません。意味もない会議を頻繁に開かれても、あるいは決定したと思ったことでも何の決定にもなっていなかったりするのも、住民にとっては迷惑なだけでしょう。


・住民が継続して話し合っていけるような条件が用意されているか?

 「計画づくり」が終われば住民参加も終わりではありません。むしろそれ以後の方が重要なのです。
 例えば1年かけて計画づくりの場を用意してきて、計画がまとまったら、「来年以降は自由に議論して下さい。」ということにしてはいませんか?


・住民参加が目的化していないか?

 さらに私の心配は、本来、手段である「住民参加」が最近は目的化しているのではないか、ということです。
 「住民参加」の事例が増えてくると、住民参加の経緯のまとめ方や、住民への情報提供の試みだけが、過去の事例を踏まえてますます詳細化していくようです。まちづくり本来の目的を大切にするよりも、各種会議の結果に関する詳細な報告書、まちづくりニュースやパンフレット等の提供等、必要以上に詳細化していませんか?
 あるいは、ワークショップが住民意見を集約していくのに適していそうだからと、ワークショップの運営が目的化していたりはしていませんか?
 本来の目的を忘れた住民参加では、単なるアリバイづくりではないか!という批判に応えることができないでしょう。


・計画策定責任者の責任逃れにはなっていないか?

 これはちょっと言い過ぎであることは承知の上、計画担当者の心に問いかけてみたいと思います。
 計画がまとまらな理由を「住民意見がまとまらないから…」ということにしてはいませんか?まとまらないのはまとまるように運営していないからだとは考えられませんか?


・時間稼ぎになってはいないか?

 市町村財政が厳しさを増すにつれ、住民参加による協議等に時間を費やし事業が遅延するのがあたりまえのような状況になってきました。財政的には、具体的な事業実施よりもはるかに少ない経費で済むわけですから、その方が都合が良いという場合もあると思われます。つまり住民参加は必要なことなのですが、必要なまちづくりの実現を遅延させているかもしれないというわけです。まさか、意図的にそうしているとは思いたくないのですが…。
# まあそれでも、必要のない事業に税金を費やされるよりはましかもしれませんが…。



3.実践的な住民参加の方法

 「住民参加」ってそんなに難しいことでしょうか?そのための専門家がいなければ出来ないことなのでしょうか?私にはとてもそうは思えないのです。
 そういう立場から、私の考える住民参加のポイントを考えてみます。


・まずは白紙状態で

 まちづくりは、まず話し合うということからスタートします。計画主体は、まず関係者の話を聞くことが大切でしょう。
 どのような計画づくりも、住民に意見を伺う機会が必要なものなら、それはまず最初に白紙状態で行うべきです。
 その方が、たたき台を作成してから住民の意見を聞くより、はるかにうまく(計画策定プロセスとしても、関係者の満足度としても)計画づくりを進めることができるでしょう。


・形式的な会議より話し合いの機会(形式より中身)

 「《ワークショップ》で計画づくりをはじめます。」などという前に、なぜ率直に住民の話しを聞くことからスタートできないのでしょうか?ある地区で、区画整理事業もかなり進んだところでざっくばらんに住民の意見を聞く機会を設けた際、「ようやく言いたいことが言えた」と言って帰った住民の声が頭に残っています。なぜもっと早くから、こういう機会が設けられなかったのでしょう。ワークショップなら十分な意見を聞き出すことができると考えるならそれは大間違いです。
 大切なのは納得するまで意見を出して貰うこと、計画には、その意見を十分盛り込んでいくという姿勢だと思うからです。


・どのような計画をつくろうとしているのか十分な説明を

 住民には、これから作成するまちづくり計画の目標・位置づけ、それが何の役に立つのか十分説明する必要があります。ただでさえ、住民は、それが理解しにくいのですから…。


・計画づくりの進め方も十分説明を

 また、特に従来の会議方式と異なる《ワークショップ方式》で進めようとするなら、そのことも事前に説明する必要があります。従来の会議方式に慣れた人、特に会議を自分の意見で引っ張っていこうという意図のある人は、その方式を「子供だまし」だと考えるかもしれません(現実にあった話しです)。

 委員会等、代表者を中心とした会議を中心に計画づくりを進めるのであれば、その代表者がどのように選出されたのか、十分認知されるように進める必要があります。それが曖昧なままですと、委員会の存在自体を否定されうことになりかねません。
 会議での議論の経過、計画のたたき台等、住民への周知を図り、意見を聞き取る機会(回数、タイミング)は十分考慮して下さい。
 こぎれいな《まちづくりニュースやパンフレット等》よりも、むしろ住民代表が地域住民に説明できることの方がはるかに意味があります。


・事業につながる計画づくりは、事業のことをわかっている人間が係わるべき

 文言表現が重要な「計画のための計画」ではそれほど致命的にはならないことでも、「事業のための計画」では後々その事業を規定してくることもあります。
 土地区画整理事業の最初の構想づくりの段階で事業を知らないコンサルタントが係わって住民参加による計画づくりを進めたために、見栄えの良い土地利用構想はできたかもしれませんが、それが実際の事業推進を困難にしている例もあるのです。


・ファシリテーター、コンサルタントをあてにし過ぎない

 原案やたたき台を作成するためには、それなりの専門家が必要だとは思いますが、住民参加方式で進める会議、特にワークショップ方式でもそれを専門に行っているコンサルタントがいるくらいですから、専門家が必要だと考える行政職員は多いようです。
 確かに、コンサルタント等の専門家が入った方がスマートで格好良く進められるかもしれません。しかし、もっと大切なのは「計画づくりの主体と住民の十分な理解」である筈です。格好良くなくても、一生懸命取り組む姿勢を住民に理解してもらうことの方がはるかに効果が大きいはずです。ファシリテータ(進行役)やコンサルタントをあてにし過ぎないことが大切でしょう。
 

・住民も高齢化するなど変わっていくことを考えておくべき

 近年は、公園づくりなどを住民参加で行うことが多くなりました。公園をより活用してもらうために、あるいは公園の維持管理を住民主体で行ってもらうためにです。
 しかし、参加した住民も歳を重ねていきます。住民が個人の集まりでは、管理などいずれ疲れてできなくなってしまいます。住民参加で活用をイメージしてつくった公園でも、希望する使い方が高齢化によって変わっていくかもしれないのです。
 世代の引き継ぎが十分行われること、住民が変わっても活きつづける整備、難しいことですが、住民意見だけで計画をつくることの問題も考えておくべきでしょう。


・住民だって疲れる

 住民参加はもともと簡単ではありません。十分な数の参加者が得られないために声をかけられる住民も結構いるようです。そんなことが度々となれば、参加する住民だってうんざりです。
 様々な会議に出席できるような時間的余裕のある住民ばかりではないのです。関心はあっても、そう度々は出席できない住民も多いはずです。
 直接参加が必要な機会は効果的に設けるとともに、それ以外の参加のあり方も十分検討する必要があるでしょう。しかし、それをインターネットで公開すればOKだなんて、短絡的に考えないで欲しいものです。住民に参加を求める方法はあくまでも直接的な方法が効果的な筈なのですから…。



4.住民参加の課題

 今後は、様々な局面に「住民参加」は浸透していくことになると思われます。
 それでも、次のような点は、常に課題として残っていくように思います。恐らく住民参加の永遠のテーマなのかもしれません。


1)住民とは誰か


◆住民参加に集まる人々は住民の代表だと考えて良いのか?

 通常、任意に開催される「住民参加方式」に参加する方々の多くは、下記のような人々です。
・男性では50~60歳以上のリタイアした人かそれが間近の人
・女性では子育てが終わった主婦
 これに、学生やもちろんそれ以外の若い人々が加わりますが、人数からすればかなり少なくなります。

 「委員会方式」等では、地域の様々な組織の代表者に、一般の方々から有志を募って加えることがある程度です。
 
 もちろん、様々な意見を集める段階や、計画づくりの途中で意見を求める場合などには広く住民の参加を求める試みを行います。
 それでもなお、それに参加した人が住民の代表なのか?という疑問を私は感じているのです。「意見を出せる人々は、住民の中でも恵まれた人たちなのではないでしょうか?」会議に出席できない人々、生活に困ったりしていてそれどころではない人々や日本語のわからない人々の意見はどのように汲み上げるのでしょうか?

 恐らく、どのようなやり方をしても、「少なくともここまでやった」ということは言えても、完全に満足の行く答えはないでしょう。それに、市民のボランティアだけで進められたものならそうではないのですが、少なくとも税金を使って進めるものである場合には、(あまりそれが問題にされたことは聞いたことがありませんが)自ずと適正な限界がある筈だと私は思うのです。

 ですから、私が言いたいのは、

 住民参加は、どこまで徹底して行ったとしても、完全なものにはなり得ないとすれば、少なくとも、参加者だけの意見によって計画がつくられるのではなく、参加者自身が、他の住民の意思も代表しているという自覚を持って進めるようなものにして欲しい。

と言うことなのです。


◆住民の総意だとどのように判断するのか?

 同様なことは、計画等の認知段階でも言えると思います。即ち、どのような状態になれば、それが住民の総意だと言えるか?
 どのような計画でも、住民の属性により考え方が異なるとすれば、その計画を住民に認知して貰うために、どのような方法で理解してもらい納得してもらえば良いのかはなかなか難しい問題です。

 例えば、市町村合併問題などで住民投票の報道を見ることがあります。その場合、私が懸念するのは、下記のような手順がきちんと踏まれないまま行われているのではないか、ということです。
・合併をした場合、しない場合について比較した検討がきちんとされ
・住民にその違いが理解され
・その上で住民投票が行われていか
 抽象的事項の羅列で判断しろというのは、それは感想ではあっても、意思決定にはとてもならないでしょう。中学生まで含めて(そういう村もあったようですが)住民投票させれば良いというものではないと考えます。


 その計画に対して住民が合意を得るには、ただ、広く合意を得さえすれば良いのではなく、判断可能な「判断基準(選択肢等)」を的確に示すことが必要な場合もあります。そうした判断基準を明確にすることも計画の重要な成果だと考える必要があります。



2)住民参加で何を実現するのか

 住民参加を始めるとやりたいこと、やるべきこと等、際限がありません。様々な事例が集まってくると、行政が行う場合には、それが際限なく形式化していくかのようです。
 もちろん、予算は決まっていますから、コンサルタントや職員がそういう形式を整えていくことになります。しかし、住民参加については、形式よりもっと重要なことがあることが十分考えられているのでしょうか?
# 次章で職員の役割について言及しますので、そういう問題点だけを指摘しておきます。

 住民参加で動かすと決意したことには、本来の目的がある筈です。また、それに付随する期待されて事項もあるでしょう。
・課題を明確にしておきたいのか?
・住民が共有できる目標を明確にしたいのか?
・今後推進すべき計画・事業を明確にしたいのか?
・進めるべき事業の主体の意思を明確にしたいのか?
   ・
   ・
   ・
・全体を通して住民参加方式が学習されれば良いのか?
・まがりなりにも住民参加でやったという証(あかし)があれば良いのか?

 もちろん後半は冗談ですが、仮に前者のような意思を持っていても、計画から実施につながるためには、様々なステップがあります。住民の意図と実際と食い違うことが少なくないのです。もし、そうした不幸な結果が重なれば、参加した住民の気持ちはどのようなものでしょうか?
 
 少なくとも、住民参加で何を実現するのか関係者が明確に認識し、それに近づけられるような進め方をして欲しいものです。それに、ことさら住民参加と言わなくても、あるいはそれらしい形式をわざわざとらなくても別の方法だってあるかもしれませんし…。


3)住民参加の望ましい方法は?

 もちろんそんな方法が最初からある筈ありません。
 ただ、間違うべきではないということはあると思います。そのいくつかを書いてみます。

 住民参加の「方法」を考える以前に、住民と可能な限り話し合う機会を設けることの方がはるかに重要である。

 「住民参加」を格好良く進めようとする必要は全くない。
 例えば、パソコンを使って格好良くプレゼンテーションをするより、住民自らが手を動かしたものをもとに、試行錯誤しながら手作りで共に創り上げていったものの方が、はるかに真実が込められているのではないでしょうか?
 それに、住民参加の方法については、様々なテキストがすでに沢山あります。それらを参考にしながら、関係者が責任を自覚しつつ進める方が、はるかに身のある成果が得られると思います。

 したがって、最初からコンサルタントが必要だと考える必要はないと思います。コンサルタントは計画をまとめる技術的部分を請け負っても、計画の当事者ではないのです。
 当事者が本当に真剣に計画づくりを進めようと決意するなら、コンサルタントのような役割が本当に必要とされるのは、対立する意見をまとめうために適切な仲介者が必要だったり、具体案を提示する必要があったりする場合等、極めて限定された場合だけだと言っても言い過ぎではないと思いますがいかがでしょうか?
■まちづくりと「計画」
1.まちづくりには計画が必要

 個人が何かを行う場合には、思いつきでやっても差し障りありませんが、「まち」は大勢の人々が住む場所ですから、そこを造っていくためには、事前に人々が共有できる「目標像」や「その実現のステップ」が必要になります。
 ここではまちづくりの前提になるものとして、「計画」をどのように考えたら良いかを述べてみたいと思います。

 ついでに言えば、ちょっと変わった建物をデザインした人などが、まちづくりをしたかのような発言を見聞きすることもあります。その心意気は結構ですが、私は、複数の住民が関与しないものをまちづくりとは考えていません。



2.まちづくり計画とは?

 では、まちづくりの計画とはどのようなものでしょうか?
 通常、「都市」や「まち」を物理的に造っていくためには、次のようなステップが必要になります。
 しかしながら、人々の思い描く「計画」には大抵の場合多少のズレがあり、それが十分共通認識になっていないために、まちづくりの最初の段階から混乱することも多いのです。
 少なくとも下記のような計画があるとすれば、何を目的としたものなのかが明確にされていることが必要となるでしょう。

●目標:人々が旧出来る将来イメージ。都市像などといった言い方もある。
●構想:まちづくりのおおまかな考え方を示すもの
●計画:まちづくりのための方策を示すもの
 長期計画、中期計画、短期計画 …
 基本計画、実施計画 … 等
●設計:具体的な設計  概略設計、基本設計、実施設計 等
●事業実施

 そして本来は、人々がそこで生き生きとした生活を可能とする「まち」としていくためには、まちの「維持管理」及び「運営管理」といったことが求められています。しかも「まち」は長期にわたる活動を前提としていますから、その主体となる人々も変質していくことを考慮しておかなければなりません。 さらに、まちのスケールによっては、その「更新」についても考えていく必要があるでしょう。これは、従来の「都市づくり」には完全に欠落していた視点です。
# 例えば、今、東京に乱立する超高層ビルも将来どのような問題を提起することになるか、
# 誰が考えているでしょうか?



3.計画の種類(スケールを中心として)

 世界計画なんていうものはありませんから(^^ゞ、とりあえず国のレベルから考えてみましょうか?
 スケールで考えれば概ね次のようなものを考えれば良いでしょう。
 その計画の主体となるのは誰なのかをよく考えてみて下さい。つまり、行政はあくまでも部門別に動くような仕組みになっていますから、その計画は各部門に落とされるものでないと実質的には動かせないものすし、複数の市町村の計画も市町村界に近いところに迷惑施設が多いことを考えただけでもなかなか実現し難いものであることが理解できるでしょう。

●国土計画
(主体:国土交通省)
●広域計画
(複数県にわたるもので、多くの場合国土交通省が主体となり、他の省庁も連携することもある)
●県計画(主体:県)
●広域市町村計画
(広域圏計画)(主体:複数の市町村)
●市町村計画
(都市レベルの総合計画 等)(主体:市町村)
●地域計画
(特定の課題を持った地域の計画 等)(主体:市町村や地域住民)
●特定地区計画
(特定の区域内の計画)(主体:市町村や地域住民、民間事業者等)


 これらのうち特に都市レベルでの計画にはさらに様々な目的別(分野別の計画を持つことも多いのです。例えば、都市マスタープラン、緑の基本計画(マスタープラン)、環境マスタープランや交通マスタープラン等の呼称を聞いたことがある方は多いと思います。また、再開発計画、地区(整備)計画等の呼称も聞いた方は多いでしょう。すなわち、まちづくりのための計画が、これらとどの様な係わりを持っているかを考えていくことも極めて重要なのです。
 一般的には「まちづくり計画」とは、地域レベル以下のスケールで使われることが多いようですが、「都市」から受けるハード一辺倒の印象に比べて、「人」や「ソフト」も包含するような印象があるため、最近は、「まち」の概念が広がっているように思います。
 ここではそのあたりについては深く言及しませんが、より広い概念のものとして捉えたいと思います。

 むしろ、まちづくりに係わる人々に意識していただきたいのは、それぞれの計画によって、計画の主体や、計画の目的、実現への取り組みの考え方が異なっているということです。


4.まちづくり計画の位置づけ

 大抵の人々は、「計画」されたものは自然に実施につながるものだと考えているでしょう。しかし、それは必ずしも正しいとは言えないのです。


1)市町村の計画の体系

 たとえば「市町村の総合計画」を考えてみましょう。
 一般的には、市町村の総合計画とは、「基本構想+基本計画」で組み立てられた行政計画となっています。それらは、次のような体系となっています。

●基本構想
 目標期間:概ね20年(概ね10年ごとに見直し)
 都市像(将来都市像としての目標キャッチフレーズと場合によってはイメージ図)と施策の体系
●基本計画
 目標期間:概ね10年(概ね5年ごとに見直し)
 部門別の施策計画(場合によっては重点プロジェクト等)

 さらに行政は、これを踏まえ、実施計画として一般的には次のような計画を持ちます。以下はやや計画内容がダブっていますが、市町村により若干異なった体系を持っているようです。

●中期計画(持つ場合もある)
 基本計画とローリング計画の中間的位置づけ
●ローリング計画
 3年程度の期間を見通しながら1年ごとの財政計画を見直す。毎年更新。
●各年度財政計画


 こうした計画体系を最初から知っていれば、計画に係わる人々は自ずとそれらの計画の位置づけが理解できようというものですが、一般的なまちづくり計画では、そうした位置づけが明確にしきれないまま策定されていくのです。
 基本的には、まちづくり計画が行政計画としてきちんと位置づけられるためには、首長決裁で進められるか、「基本計画」に盛り込まれていく必要があると考えておくべきでしょうが、それが理解されているでしょうか?


2)マスタープランについて補足

 先に述べた各種マスタープランも、各々の独自の計画目的はあるのですが、その実現を考えた場合は、いかに基本計画に盛り込んでいくかが重要であり、その前段としての部門別計画的側面も強く持っているものなのです。

 上記で述べたような行政計画の体系から、少なくとも行政が係わるまちづくり計画は、計画=実施ではないこと、それが実施されるためには、いかに他の計画(基本計画やマスタープラン)に位置づけられていくことが重要であるかが、理解できるのではないでしょうか?


5.まちづくり計画にも様々なものがある

 私はかって、冗談ではありますが、「『計画』には様々な計画がある」と話したことがあります。それは多少表現を和らげてはいますが次のようなものです。
 こちらは、計画の現実的側面です。生の表現ですが、この方が理解しやすいでしょうか?

1.実現のための計画
 実際に動かすことを前提とした計画
2.イメージとしての計画
 構想や長期的な計画 等
3.徐々に動かすための計画
 共通目標として掲げ、動かせるところから動かしていく計画
4.楽しみのための計画
 参加者だけが楽しんでいる計画
5.夢と現実を明確にするための計画
 最終的にはやめるための計画も考えられるのですが、それを表明した計画は思い当たりませんが、現実的にそうなっている計画は多数あります。

 本来「計画」は実施を目指している筈なのでしょうが、現実には、その実施に至るプロセスが明確にされないまま計画されることから、実施までに至らないことが多々ある、ということなのでしょうが…。


6.実際に動かすための計画のつくり方?

 先に述べた様々な計画の中で、他はどうでも良いのですが、もし実際に動かすための計画をつくるつもりであれば、そのための計画のつくり方を理解しておく必要があります。


1)計画の主体

 最初に重要なのが「誰がつくる計画か?」です。
 その計画主体は、実際に計画をつくって動かしていけるだけのお金や組織体制を持っているのか?ということです。

・地方都市であれば、動かしていくだけの意欲と覚悟を持った人物がいるのかどうか?
・商店街だったら「法人」組織となっているのかどうか?
・地元組織であれば、どのような人々によって構成されている組織なのか、リーダーはどのような人なのか?

 こうしたことによって、殆どの場合、その計画が動かしていけるものになるかどうがが見えてきます。


2)計画づくりの体制

 せっかく計画をまとめても、それが動かせるものにならないこともあります。それは、「そんな計画は知らない」という人間がいることです。
# 中には、「あいつが係わった計画は、認めることができない」という人もいますが、
# それはこの際無視しておきましょう(^^ゞ。


 ここでは、通常行われる、委員会等の会議形式の計画策定体制を前提にしていますが、そうした会議のメンバーとしては、計画に係わる利害関係者全てを入れ、「俺は知らなかった」と言わせないようにすることです。
 中には、立場を使い分ける人もかなり存在します。少なくとも組織を背負ってきている人にはそういう態度が良くあります。

●商店街関係者、企業関係者は、まず最終的な判断を行いません。商店街代表であっても会員全体に対する責任を負えないという態度ですし、企業関係者は決定責任を持つ人が会議に出席することはまずあり得ないからです。
●行政関係者(上位機関等)は、会議で発言した意見が、その後に必要になるであろう調整における事務的手続きでの当機関での対応の仕方が異なることがあります。それは委員会での意見と事務手続きとは異なるという態度なのです。

 しかしそれでも、後で「その計画は、知らなかった」とは言わせないために利害関係者全員の参加が必要なのです。 その他、委員会等では、学識経験者やちょっと飛び跳ねた意見を出してもらえそうな有識者等を入れることもありますが、どういう人を委員会等に加えるかによって、計画主体の計画づくりへの期待がどういうところにあるのかを読みとることができます。

 近年は「市民参加」の時代ですから、計画の目的によっては、市民に公開していく姿勢が必要になることも多いでしょう。

 どのような計画策定体制をつくるにしても、会議での議論をまとめていくためには「委員長等」が重要になることは言うまでもありません。


 計画に参加した人全員が賛成していても、前役職の有力者が反対して没になった計画すらあります。計画づくりをどのような体制で進めるかは、計画づくりのスタートとして極めて重要なのです。



3)計画のつくり方

 最後が、計画づくりの技術的な事項です。
 「船頭多くして、船、山へ上る」のことわざがありますが、対立する利害がある場合は当然ですが、参加者が多くなると意見をまとめていくだけでも大変なことです。
 そのためにはいくつかのポイントがあると思いますが、私は次のような方法が効果的だと考えています。

●具体的な選択案を作成できる作業チームを持つこと
 議論ばかりでまとまらない会議も結構多いものです。実現を前提としなければそれで良いのですが、特に効率よく実現できる計画をまとめていくためには、選択案を作成し、比較検討することによって意見を集約していくことが必要です。
 作業チームのない計画づくりでは、まず実施できる計画をまとめることは無理でしょう。

●最終案をまとめるため、途中では幅広の「案」を検討すること
 大抵の場合、会議における意見は極端な意見がでることも、完全に対立した意見が出るものです。それを恐れる必要は全くありません。むしろ、計画をまとめるための大切な意見だと考えるべきなのです。
 会議は少なくとも数回以上予定されるでしょうから、早い時期に、そうした極端な意見をもとにした案を提示することです。
 まちづくり計画は、余程おかしな進め方をしない限り、多くの場合一般常識で集約されていくものです。極端な案には、必ず否定的な意見が出ると考えておいた方が良いでしょう。それがその案を推し進めることができない理由になるのです。
 ですから、極端から極端へと「案」を振ることで、そういう案を早い時期に消去していくのです。最初から、着地点に近い案でまとめようとするといつまでも「その他の案(考え方)があるのではないか?」という意見を否定できないことになってしまいます。

●「案」は可能な限り具体的であること
 実施できる計画とするためには、可能な限り具体的なものに計画にする必要があります。その程度によって、計画がどこまで実施に近づくかが決まってきます。例えば、抽象的な計画では、実施するためにさらに具体的に計画を詰めることが必要になることを考えれば、それが当然であることが理解できるでしょう。
 さらに、選択肢としての「案」は、同時にその実現費用等も含めて、可能な限り客観的な評価も示す必要があります。そうしないと、会議出席者の自由な意見に振り回されることになるかもしれません。


 こうした進め方が可能な作業チームを組めるかどうかは、計画主体の意思であり、能力であり、責任でもあると思います。
 行政の場合、現在は競争入札でコンサルタントが決められることが一般です。最近では電子入札も採用される自治体が増えています。安く委託先が決められれば結構だという、そんな方法でそういう作業チームが選択できるのかどうか、疑問に感じざるを得ません。



7.計画を実現に結びつけるために

 まとめられた計画に係る市民、行政、コンサルタントの関係の仕方は各々微妙です。

 市民は最も長くその計画に関与するにも拘わらず、計画策定時に参加が許されてもその後の行政計画に取り込まれる段階には、一般的に参加の仕組みがありません。ですから、どのように具体化されていくのかがわからないまま事業に進むことも多いのです。かっては計画への参加プロセスもありませんでしたから、市の事業に反対運動も起きたりするのです。
 また、こうした「市民」はあくまでも個人としての市民であり組織化されたものではないために一般的には継続性がありません。老齢化していくことになるのです。
 それがまた、計画の実現を困難にする一因にもなり得るのです(こうした問題については、場所を変えて書くことになると思いますが…)。

 行政は、数年経たずに担当者が変わっていきます。計画とりまとめの最後の重要な年に、担当者の殆どが異動したなどということも結構あります(一体何を考えているのか!)。そうした場合など、一時的にはコンサルタントが後任の職員に計画の趣旨を引き継いでもらえるよう説明したりもします。しかし、そうした経緯の中で、いつの間にか計画策定時の熱意が薄れ、計画が形骸化したり霧散してしまうことも無いわけではないのです。 
 それでも、一般的には、担当者が変わりつつ、行政は計画を引き継いでいくことになります。それが行政の自然な体質なのです。有明海諫早堰を考えてみれば最悪のケースとして理解していただけるかもしれません。
 つまり行政の場合には、行政の体質、計画の性格等から、どちらの場合もあり得ると言えましょうか?

 コンサルタントは、行政との契約関係で動くことが一般的には多くなっています。近年の行政のコンサルタントとの契約は、「随意契約は殆ど不可能」「継続的な契約も困難」となっていますので、コンサルタントも同一のプロジェクトに長期的に係わることが難しくなりました。

 以上から言えることは、「『計画』に責任を持って長期的に係わることは、現状ではどの主体にとっても極めて困難だ」ということです。一方、変化の激しいこの時代、「計画に責任を持たないまま、単なる役所の引き継ぎだけで無用な事業を実施されることも困ったことだ」ということも言えるかもしれません。

 こうした問題を踏まえ、結論ではありませんが、計画を具体的に動かしていくためには、私は少なくとも次の2点が必要になると考えています。

●計画自体に「計画実現に至るプロセス」や「実施すべき事業等の優先順位」、「計画の見直し」等の事項を明確に盛り込む。

●同時にそれを監視する体制・仕組みをつくる

・これは、行政の「異動」が避けられないとすれば、少なくとも市民の中にそうした体制をつくり、コンサルタントの継続や(場合によっては)職員の異動延期等を行政に要請し続けるしかないかもしれません。
・そうした体制を維持するにも費用は必要になりますが、そうした経費は、当面は行政に準備してもらうことも考えることが必要になるかもしれません。


 このあたりまで含めて、「実現するための計画」を考えていきたいものです。
■まちづくり環境の変遷と展望
 いわゆる「まちづくりの環境」について考えるため、とりあえず、戦後の高度経済成長以後を見てみたと思います?
 私は、高度経済成長以後を以下の5期に分けて考えたいと思います。これを今後の論の展開のベースとしたいと思います。
(なお、この章はあくまでも「仮」のものであることをお断りしておきます。)


1.戦後復興~高度経済成長期

 戦後復興期~高度経済成長期にかけては、都市圏とりわけ大都市圏への人口集中や自動車時代の到来に対応して、全国的に新たなまちづくり(というより都市づくり)が要請されたました。
 道路整備、団地建設等、都市施設の新規建設の要請に効率的に対応するため、建築・土木を中心とする学生が大量に供給され、行政の中では技術職の増大が図られ各地で新たな都市づくりが進められました。当時都市計画の専門分野は特になく、建築・土木の一部講座で研究・実践が図られていた程度でした。
 都市計画技術はまだ未熟だったと言えましょうが、新たな都市づくりの根拠としては、単純な推計にもとづく量的な対応を中心とせざるをえず、人口予測・交通量予測にもとづく道路計画・団地計画等が進められていたと思います。
 この頃の「都市計画」は、マスタープランとして都市の将来像をどのように示しうるのかを主要テーマに、一部大学で産学協同研究として実践されていたにすぎませんでした。
 行政職員はいわゆる技術出身者が「都市づくり」に携わっていましたが、それはもっぱら設計技術者であり「計画技術者」ではありません。一方大学では「研究者」として携わっていたものであって、必ずしも「プランナー」として機能していたものではありませんでした。それでもこの世代を第1世代と呼ぶことにしましょう。


2.経済安定成長期

 昭和40年代中頃から後半にかけては、各地に環境問題が勃発し、その後オイルショックが起こることで、高度経済成長の反省期あるいは見直し期に入ることになりました。大学紛争の発生もこの頃であり、大学内の都市計画研究者の多くも民間コンサルタントとして都市計画のパイオニア的な役割を果たしていました。
 さらに50年代に入ると、「安定成長時代」「地方の時代」などの言葉とともに「まちづくり」も本格的に新たな時代に入ったようです。この頃には、東京都の人口も一時的に減少したりと、東京の成長の時期も終わりかと思わせるような時代でもありました。
 地方都市の活性化もまちづくりの重要なテーマになり始めていました。建設省の「地方都市活性化計画(シェイプアップ・マイ・タウン計画)」、建設省・通産省の「コミュニティマート構想モデル事業」等、地方中心都市の活性化のための計画づくりが進められました。高度経済成長期の都市づくりが結果的には拡散的な都市づくりであったのに対して、一部の行政が都市中心部の活性化に向けた都市づくりを進めようとしたのです。
 この頃には、「都市計画」はマスタープランとしてだけはなく、その実現性が重視されるようになっており、報告書の最後には「実現の方策」の章が加えられるとともに、そのための体制として、行政内の連携体制維持のための工夫も考慮されるようになったと思います。
 昭和50年代中期からバブル期の初期にかけて展開された「コミュニティマート構想モデル事業」では、(年間約4000万円という当時としては巨額の調査費にも驚かされますが)「省庁の連携」のみならず「住民(商業者)参加」等、実現に向けた「計画づくり」が具体的に考えられてきたようです。行政内の「計画技術者」の成長と「コンサルタント」の広がりが、こうした計画づくりを可能にしてきたと言えましょう。
 この頃、行政は、新たな都市づくりをリードすべき立場として、重要な役割を担っていることを自覚し始めた時期と言えるかもしれません。また、コンサルタントは、第1世代・第2世代が中心となって、計画づくりのプロとして自覚を持ち、行政をリードしながら計画づくりを進めることができた時期かもしれません。


3.バブル経済期

 昭和50年代後期から、バブル経済期に突入し、東京都の人口も再び増勢に転じました。
 各地で様々な都市づくり・まちづくりが、バラ色の未来に向かって華々しく展開されていった時代と言えましょう。
 行政内の「計画技術者」と「コンサルタント」も、比較的ゆとりある調査費の中で、協調的に楽しく仕事ができていたようですし、計画づくりへの住民参加も、アンケート調査等が中心ではあっても当然の手法になってきていました。
 バブル経済は、全国各地の諸事業を進め、行政内部にも「計画技術者」を数多く育てたのですが、「コンサルタント」も(乱立とは言わないまでも)玉石混交の多数時代を推し進めることになりました。
 営業力で仕事を確保し人員を増やしているコンサルタントが増加していく中で、行政側から見れば、優れたコンサルタントが見えにくくなる一方、計画のプロとしての強力なプライドを持っていた一部事務所も徐々に肥大化する組織について新たな組織のあり方が模索され始めていました。
 そうした中で、行政とコンサルタントとの関係は、それまでの協調関係から行政が主導権を握るような傾向が見え始めました。行政内で「コンサルタントを使いこなさなければいけない」などということが言われるようになったのはこの頃だと思います。すなわち、行政内の政策決定の立場には第1第2世代が座っているのに対して、コンサルタントは玉石混交の中で、第2世代、第3世代が仕事の中心になっており、相対的に行政の力が強くなってきたと言えるのかもしれません。
 一方、バブル期の象徴でもある全国主要都市のビッグプロジェクトには、国も強く関与することになり、必然的にそれらの計画に携わるコンサルタントには第1世代が中心となって行きました。結果的に、全国に同じようなコンセプト・土地利用計画のプロジェクトが広がっていったと言えるかもしれません。
 中心市街地活性化のための計画も、コミュニティーマート構想モデル事業における調査費の単年度集中投資の反省を踏まえて、(特定)高度商業集積等整備等の計画に変わっていきました。


4.バブル崩壊以後

 平成2年のバブル経済の崩壊以後、まちづくり(及び計画づくり)の環境は一変しました。すなわち、
・市町村財政はますます厳しく(従って調査費枠は厳しく)
・行政とコンサルタントの関係もよりシビアになり
・計画づくりより実現するための条件整備が重要視されるようになり
・バラ色の拠点整備計画から身近な環境整備が主要なテーマになり
・既存の環境の保全、更新・再生が主要なテーマになってきました。計画の性格も「都市づくり」から「まちづくり」へと変質していきました。

 同時に、一極集中・都心回帰等で浮かれる東京だけを例外として、(バブル経済期にも当然わかっていたことですが)人口減少時代への本格的な対応が現実のものとして迫ってくるようになったのです。
 特に財政は年を追う毎に厳しさを増しており、都市づくり事業は簡単には動かせなくなってきました。都市づくり事業の重要なポイントは「住民合意」と「事業性」になってきたように思います。そして、特に前者は市民参加方式で進める公共性の高い「まちづくり事業」として、後者は、都市における必要性からではなく、何が実現でき採算性があるかという事業性の論理から進められる「民間事業」に2極化してきているように思います。いずれも行政にとっては、自ら主導する対象ではなくなってきたのです。

 これまでの経過を追ってみるとわかりますが、都市政策は本当に必要な時期から常に10年ほど遅れて進められます。中心市街地活性化計画、都市マスタープラン、「都市再生」などがこんな時期になって推進されても、それが可能な都市はずっと以前に進めているわけですから、これらの新制度を活用できる都市はそうはないですし、余程の覚悟がなければ目標の達成などおぼつかないのです。単なる政治的なスローガンならそれで良いのですが…。

 当然、行政内の計画技術者も、民間プランナーもそれぞれの立場・役割が変化してきました。

 かって都市を造ることしか考えてこなかった人々、都市を消費する方向でしか都市づくりを進めてこなかった人々も、「省エネ」だとか「コンパクト・シティ」、「環境」、「景観」などを主張するようになってきたのです。これが時代の変化というものでしょうか(^^ゞ。
 それに方向転換できればまだ許せる気もしますが、既得権益にしがみつき従来の路線を強引に推し進めようとする人たちや体制はどうにも困ったものです。


 行政内では、財政的に事業推進が困難になるとともに市民合意が不可欠の条件になりつつあることから、それまでの市民意向の調査から計画づくりへの市民参加(市民参画とも言う)が不可欠になってきました。むしろそれこそがまちづくりの目標になってしまったかのようです。それらを直接担当する職員も第3世代が中心となっており、事業の性格、職場内の人間関係の点からも、自ら「決断」するのではなく「調整」こそが求められるようになりました。それだけではなく、職員自身も、直接技術を生かせる職場から福祉や市民対応(交流)のための部署へ異動させられたりする可能性を常に抱えているなど、意欲ある職員ほどその気持ちを維持しにくい環境になりつつあるように感じられます。
 まちづくり関連業務の発注も、特命(随意契約)によるものは殆どなくなって競争入札が前提になってきました。特命で担当レベルが発注できるものは例えば100万円以下の少額のものに限られ、しかも発注できる業務は行政内部で消化しきれない雑務が中心となってきました。つまり、「金がないんだから、行政職員ができるものは自らやれ!コンサルタントに委託せざるを得ないものも、職員はできるだけ頭を使え、やりきれないものはコンサルタントにまかせろ!」というわけですから、まちづくりについてどちらが主導権を握ることになるかは明らかです。しかも、経験年数の乏しい第3世代がコンサルタントを使おうというわけですから、どのようなまちづくりになっていくかはこれも明らかである、とは言い過ぎかもしれませんが…。
 また、かっては否定された産学協同も、地域貢献の視点から大学も地域に積極的に関わっていくことが求められるようになると、学生を使ったまちづくり計画づくりの提案が行われるようにもなりました。
 しかしこんな状況で、望ましい、また責任あるまちづくりを進めようという意思を、私には感じることができません。

 一方、「民間事業」は、東京を中心として、企業のリストラのために放出される土地の開発(それも住宅中心)が進められています。ここでは経済的な論理だけで進められており望ましい都市づくりへの目標は既に放棄されているようです。また、本当に活性化が必要な地方都市は無視されているかのようです。
 今や、まちづくりを進めているものは「計画」ではなく「合意と事業性」なのですからプロのプランナーが要請される余地は殆どないのです。むしろ必要なのは、様々な人々の意見をとりまとめ合意に至るプログラムを実施できる人か、企業内の事業屋が諸分野の専門家をコントロールできさえすれば良いのです。

 それにしても、安全性も不確かなまま東京で乱立していく自己主張だけで見苦しい超高層を見るたびに情けなくなります。これが望ましい都市づくりか?都市づくりに係わる人々は「理想」や「責任」を放棄し、単なる都市づくり屋に成り下がってしまったのか?と…。
 これではこれまで推進してきた消耗する都市づくりに対する反省などどこにも感じられません。


 都市づくりの明確なビジョンや意思のない「まちづくり」の中で、多くのコンサルタント・プランナーも一部は「大学や政界」に活路を見出し、多くは「NPO」を中心として何とか生きる道を模索し、その他はプランナーとしてではなく「業者」として仕事を終えようとしているのかもしれません。第1世代、第2世代の行政職員もそろそろ退職年齢を迎えているのがこの時期かもしれません。


5.今後の展望

 私自らを位置づけるとすれば第2世代になるかもしれません。望ましい都市づくりのために働きたいという思い入れは強いのですが、それは私個人の考えることであって、長期的に「今」を考えてみれば、そんなことはどうでも良いことです。
 これからの都市づくりは、都市像として描かれた将来像を「建設していくこと」ではなく、人々が共有しうる将来像に向けて、「様々なまちづくり活動を誘導していくこと」だと言えないでしょうか?
 そう考えると、私自身が目指した「トータルな視点でまちづくりをコントロールしていく計画者(ジェネラル・プランナー)」は、どこにも存在する場所を見いだせないようです。従来あった「プロとしてのプランナー」は海外に活動の場を見出せば別ですが、今の国内では明らかに多すぎます。
 我が国でこれから必要なのは、業務として成り立つかどうかは別として、環境問題や、地域環境や景観を保全しより豊かなものとして維持するための活動を組織していくことであるように思われます。また、「まちづくり」に限定して言っても「関係者の意思を結集させていくプログラマー」のような役割だと言えるかもしれません。それは、コンサルタントや都市計画の専門家ではなく、人間が好きで、面倒見が良くて、できれば多くの人脈を持ち、多くの時間を割いて、人々の集まりを設定し、活発な意見交換を促し、それらを集約していける能力を持った人であれば誰でも良いのです。
 そこでは固定した目標を決定する必要さえないかもしれません。明確な目標に向けて実施するものは、民間事業として進められることになるでしょうから…。「まちづくり」としては、常に流動する人々の行動を緩やかにコントロールして行きさえすれば良いことのように思われます。恐らくその中心的な役割を果たすのは「首長(及び行政)」しかいないでしょうし、特に活発な活動の中心には重要な役割を担うリーダーがいることでしょう。それはNPOかもしれませんし、行政の職員かもしれませんし、地域の代表かもしれませんが…。
■まちづくりの主体と環境
 ここでは、何が「まちづくりを決定するのか」を整理してみたいと思います。そして、今後のまちづくりがどう進もうとしているのか考えてみましょう。
 
            *  *  *  *  *

 まちづくりを決定する要素には、大きく次のようなものがあると考えて良いでしょう。
 ①住民、②行政、③まちづくりコンサルタント、そして、④それらを取りまく環境です。



①住民

 「まちづくり」対象地区に直接係わる住民です。

 近年、まちづくりにおいて「住民主体による」とか、まちづくり計画に「ワークショップ方式」が採り入れられ、その中で「住民参加(または参画)」などと言われるようになりました。

 地域住民と言えば、何となくわかったような気になるものなのですが、実はこれがくせ者なのです。「地域住民」とは一体誰のことを指すのでしょうか?

 つまり住民の中には、居住者もいれば(その中には、子供、母親、父親、老人等もいます)、そこで生業として、農業や商業を営む人々も、企業人として働く人々(経営者・労働者)もいるわけですし、観光地などは来訪者もいるわけです。

 また、まちづくり計画への住民参加と言っても、それに全ての人々が参加できるわけではありません。たまたまそこに参加している人々は、本当に地域住民を代表する人々なのでしょうか?


②行政

 とりわけ高度経済成長期は、急速にまちづくりを進める必要があって、行政が中心となってまちづくりを進めてきました。それが郊外に展開する都市づくりでも、中心部の再開発でも殆どが行政中心のものでした。今あるまちの姿の多くは行政に大きな責任があるものだと考えられるのです。

 今、財政的理由や住民の強い意見もあって、行政はまちづくりの責任から逃れようとしているように見えることもありますが、上記のような住民の曖昧性を考えると、やはり、行政はまちづくりをリードする重要な主体であって欲しいと私は思っているのです。


③まちづくりコンサルタント

 なぜここでコンサルタントを挙げるのか不思議に思われる方もいるかもしれません。私がここで挙げる理由は以下の2点を重視するからです。


ア)計画の総合化
 上記2つに比較すると、まちづくりにおいてはやや中間的な主体かもしれません。そのため、住民と行政の様々な意見調整を行いつつ、今後の社会が進むべき方向をを考慮しながら、総合性のある計画としてまとめていく上で特に重要な役割を担うことになると考えているからです。

イ)諸提案を作成する実務者
 まちづくりには、必ずそれを計画図や文書等にまとめる作業者が必要です。かっては、行政を助け(行政も頼りにし)、まちづくりの案を作成していれば良かったのですが、住民が参加するようになると、諸提案の選択肢とそれぞれの意味、選択肢の将来予想等を的確に示すための高度な専門的作業が必要になるのです。それがなければ単に意見の言いっぱなしの会議ばかりが実施されることになってしまうでしょう。

 ですから、ここでは必ずしもコンサルタント業を営む者を意味していません。つまりそういう役割を果たす人でありさえすれば良いのです。ただ、それには、高度な専門家(または専門家グループ)が必要になるのです。


 これらのいずれが欠けていても、仮に何となく人々に合意されたかのようなイメージはできても、「実現するためのまちづくり」はうまく進まないことになるでしょう。


④それらを取りまく環境

 いわゆる、地域を取りまく政治・経済・社会及び文化環境であり、その中で成立した各種法律・制度等もこうした中に含めて良いでしょう。

 都市が成長していく時期と衰退していく時期では、こうした環境は「逆転」とでも言いたくなるような変化を示します。都市への人口集中から郊外部への人口の外延化等、東京の変化の様相を考えるだけで様々なことが思い当たると思います。

 都市を計画するという立場で言えば、本来そのタイミングに進めたいまちづくりを可能とする制度的な条件が整うためには大抵の場合10年程度遅れます。ですから、望ましいまちづくりには先を読んだ行動が必要なのですが、それを現実のものとするためには、それを支える人々の先見性が必要になります。しかし、あまり先見的すぎると人々の合意形成すら不可能です。ですからまちづくりは常に大多数の人々が納得できるレベルでしか進められない事が多いのです。

 いつも現状追認のようにしかまちづくりが進まないのは、恐らくこうした環境の変化の仕方と、まちづくり関係者の特性があるのではないでしょうか。

 また、現在、社会環境が激変していることが、今後のまちづくりの進むべき方向性をさらにぼかしてしまっているのでしょう。 

 一つ明らかなことは、今後のまちづくりには、「時間を計画する」つまり、まちづくりプロセス自体を運営していくことが求められるということです。

 これまでの計画、特に高度経済成長期には、行政にはノウハウがなく、計画づくりの多くはコンサルタントに頼らざるを得ませんでした。しかし、コンサルタントにも様々な人々がいますから、恐らく十分な成果で応えてはいなかったのでしょう。行政担当者が経験を積むにつれ「コンサルタントに頼るだけではダメだ。コンサルタントを使いこなすようにならなければ…」ということを言い始める自治体も出てくるようになりました。つまりコンサルタントは「先生」から、協力者というより、一気に「業者」になり下がっていったかのようです。

 かってコンサルタントは、計画づくり特に空間計画の専門家であったかもしれません。しかし、計画書もデータで納品するようになると、ある種の計画はその修正や物まね計画でも可能になってくるのです。しかも財政が厳しくなるにつれ、「時間を計画する」というわけのわからないことになってくると、コンサルタントに委託するよりは、行政自らが計画づくりを行うことが求められるようになりました。つまり行政がまちづくり全体のコントロールをするようになってきたようです。
 行政職員は、常に部署を異動していきますし、地位も変わっていきますから、専門的知識・経験の蓄積は殆ど不可能です。また、まちづくりに係る担当者の年齢層が実際に事業を動かしたことのない世代に推移するにつれ、何かを「決定する」ための計画というより、「調整」の素材としての計画が重要になってきたかのようです。

 悪く言えば、決断しない行政がまちづくりをリードするようになったのです。住民の声が強くなるにつれ、「合意形成」ということが、決断しない大儀名分となりますし、その方が財政支出もなくてますます都合が良いわけです。


 住民はと言えば、当面は、言いたいことを言える場が増えたことに満足し、そのうち、何度も似たような場が持たれているにも拘わらず何も動かないことに苛立ち始めているようですし、住民参加が進んでいるところでも、住民自らがまちづくりへの参加(またはまちの管理運営等への参加)し続けることに疲れを感じ始めているかのようです。


 コンサルタントは、経済的には、まちづくり全体の仕事が減少する中で、大学やNPOなどとも競合しつつ、互いの生き残りをかけて仕事受注のための叩き合いをしているわけですが、仕事の内容面でも、まちづくりに係る先導的な役割からはずれ、行政の指示で動く業者として動かされるようになり、住民参加等の場では、計画づくりをリードするというより、資料づくりや記録係の仕事が重要な仕事になってきたようです。これらの仕事は、あくまでもまちづくりの手段に係わるものであって、まちづくりの目標に直接係わる仕事ではありません。これではコンサルタントの役割が低下するのも仕方ありません。 


 新しいまちづくりに向けて、各主体が惑い悩んでいるのです。

 こういうまちづくり環境から抜け出すには、どのようにしていったら良いのでしょうか?

■改めてまちづくりとは?
 高度経済成長期は、人々が共有できるような「望ましい都市像」を描きやすく、私たちはそれなりに、望ましい街づくりに向けて動いているという実感を持って活動ができました。ですから、どんなに難しくても、忙しくても、望ましい将来に向けて働いているという意識の中で、仕事にも十分な充実感を感じることができました。しかし、現在はどうでしょう。皆さんはどう感じておられるでしょうか?
 望ましい将来像とはそれが空間的なものであれは、より専門的な能力が要求されるわけですが、時代の進展とともに、将来像は徐々に空間的なものから人々が共有できる「イメージ」になってきたように思います。そうした中で、都市計画のプロとしての仕事より合意形成の仕事が重要になってきたようです。それは市民社会の進展の必然的な方向でもあり、厳しさを増してきた財政事情とも合致する方向だったわけで、ワークショップやら、委員会やら、さらには各種シンポジウム・研究会等が必要とされるようになってきたというわけです。

 そうした中で、まちづくりは、従来の「空間的な計画」から、人々の合意形成をマネジメントする、すなわち「時間を計画する」ものに変化してきた、と理解しているわけです。

           *  *  *  *  *

 それは、本来は適切なプログラム計画があってしかるべきなのですが、そのための専門家がいるとは一般に理解されていませんし仕事の成果も明確ではないこともあって、むしろ試行錯誤しながら進められるべきものであると考えられているようです。
 また、一方では、まちづくりとは幅広い概念ですから、あらゆる方面にまちづくりをやっている、あるいはそれができると思っている人々が増えてきたわけで、明確な目標に向けたプログラムとしての合意形成、というより、あいまいなまちづくりのための合意形成イベントが活発になっているように思います。
 そういう場面では、(事業収支・プログラム・主体が明確な)計画づくりの仕事」というより、「合意形成のための意見調整の仕事」が主体になっている、と理解しているわけです。

 皮肉なことに、現在の経済環境は、急いで事業を進めることよりゆっくり費用をかけずに進めることを求めており、「効率」より、時間をかけた「手続き」を要求しているように思われます。かって、私たちが必死に知恵と時間を注いできた専門的な領域の仕事ではなく、議論のための資料のまとめや、会議の運営、議論の経過や結果の整理等、むしろ誰でもその気になれば出来るような仕事へと変わってきたと言えましょう。まちづくり計画も能力を使うものから、時間を使うものに変わってきたわけです。


 私が考えるまちづくりは、ただおもしろい施設をデザインし、多くの人々を集めればそれで良しとするものでもなく、極端な話しをお許しいただけば、六本木ヒルズのように、周辺地域と無関係に事業を実現すれば良しとするでもなく、既存マンションや郊外部の住宅地を食いつぶすようなや超高層マンションをつくって、入居者があればそれで良しとするものでもなく、ひいては地方を疲弊させて東京が活性化すれば良しとするものでもありません。

 かっては「まちづくり」に夢を持って活動してきた人たちの多くが、経済優先のそうした事業に関わるか、単に「まちづくり関連業務」として業務をこなしているだけのように見えるのは、何故でしょうか?


 それは、私だけの思いかもしれませんが、まちづくりに関わる多くの人々が、目指すべき目標像を描くことをやめているからのように思われるのです。


 まちづくりとは、多くの人々がその将来像を共有できることは前提ですが、それが確実に望ましい将来につながったものとなるよう、様々な専門的な知恵も集積した将来像を明確にし、それに向けて着実な歩みを示すものである必要があると、(今では古典的な考えでしょうが)私は考えたいのです。


 皆さんはどのように考えますでしょうか?
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