まちづくり?
 このページは、日常の都市計画業務の中で感じたことをつれづれなるままに書き記したものです。  個人的独断的な意見ですのでそのつもりでご覧下さい。
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市民○人会議なるもの
 ある都市の総合計画都市景観分科会に参加している友人から市民○人でまとめている提言素案がまとまったので参考に見て欲しいというメールが届いた。それについて思ったことをここで書いてみよう。



○人会議の問題

 見せてもらった原稿についての最初の感想は次のようなものだった。

・文章自体に問題がある。つまり読むに耐える文章になっていない。
・全体の構成が不十分。つまり体系的に示されているとはまだまだ言い難い。

 読んでいるうちに気になってきた。

・どうして市民会議の提案が、このような計画書のようなものにならなければいけないか
・こうやってまとめたものを、行政はどのように使うというのだろうか?どのように活かそうとしているのか?

 私が、常々感じている市民参加のうさん臭さを、また感じてしまったというわけである。こんなことをしていたら、2度とこういうことに参加しなくなるのではないか。
 実態を聞いてみると、「これをまとめるにも、様々な市民の立場での発言があるので、それを(全部)入れて活かそうとするとどうしても整合性のない、ストーリーとしてもおかしなところが多分に出てきてしまうことになった。」ということ。そうしないためには、誰かが責任を持ってまとめざるを得なくなるというわけである。他の部会でも「最終的には、一人になってまとめているらしい。」ということで、これが市民がまとめたものになっていくということなのだろう。
 このような市民参加の仕組みを考えること自体がどうかと思うのであるが、市民会議の提案を、どうして計画書あるいは報告書のようにしなければいけないのか。こんなものをむやみにつくるから「計画のパワー」が低下してしまうのだと思ってしまう。市民の提言なら、重要ないくつかの柱を提示するだけで十分だし、まとめることが大変なら意見の羅列だけでも十分な筈である。どうも行政というのは、まとめる責任を放棄しているのか、市民参加の実績を欲しがっているのか。


提言内容について

 内容について端的に言えば、○○市らしい良好な景観を保全していくために、もっと「公共の精神を大切にし、一定の私権の制限も必要」というような骨子だったように思う。
 私に言わせれば、景観の問題はまず市民が共有できるイメージが形成されているかどうかである。最近、湯布院では【「ムラ」の風景をつくる】という冊子を発行して、個別の建築活動について一定の「心得」のある建築を行うよう誘導するという手法を選択しようとしている。建築活動の減少しようとしている時代に、やや手遅れの感もないわけではないが、まだ良好な景観を保っていると思われる湯布院であればこうした手法も一定の有効性はあるだろう。できれば「心得」だけではなく、市民には「誇りを持って湯布院の景観をつくっていくんだ」という意識を誘導するような整理にして欲しかったとは思ったものだが…。

 さて、この市の場合には、これまでの諸計画の中でも○○市らしい景観というものが抽象的には語られているものの、具体的にどういうことかイメージが共有化されるには至っていないし、保全すべき地域やその考え方、開発を許容して良い地域やその限界等について、明確にされないまま現在に至っている。景観の基本的なイメージを共有化するためにはこうしたことをいかに具体的にできるかが重要な筈である。市民の立場からそうしたことについて提言して欲しいものだ。私の本音を言えば、もう抽象的な理屈は沢山だという気持ちもある。

 同会議での提案では、こうしたことを前提として景観を誘導するために、一定の基準をつくってそれを強力に適用していくべきだという考え方が示されていたようであるが、これにも私は疑問である。近年各市でまちづくり条例が検討されてきているが、その殆どが一定規模以上のものに対して適用する考え方が示されている。開発事業に対する各種規制もそうであるが、一定規模以上の開発に規制をかけようとすると、開発規模を必ずそれ以下のものにしようとする事業者側の動きがある。本来、規模が大きいほど望ましい環境を持った開発が可能であると考えられるのに、これでは小規模開発やら分割開発を誘導しているようなものである。
 本来重要なのは、「全ての開発行為・建築行為について基準を考えるなら、可能な限り連続的な基準を考慮すること」であると思う。しかし、どのように考えようとも基準の適用には「基準の内容・適用対象の問題」の他「基準に示したものしか適用されない」という基本的な問題がある。となればもっと真剣に考えるべきは、「基準の適用という手段より、一定の指針への適合性を根拠とする周辺住民の合意形成」をいかに図るかを、全ての開発行為・建築行為に求めていくことが可能かどうか、ということではないか。私はそう考えている。本当に市民がそれを望むのであれば、そのための具体的方法はいかようにでも考えられるだろう。

 ただ、こうした考え方が市民会議で合意が得られるかどうかはわからない。
 友人がどのようにこれから関わってくれるか、どのようなまとめ方になるか、期待して見ていたい。
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