まちづくり?
 このページは、日常の都市計画業務の中で感じたことをつれづれなるままに書き記したものです。  個人的独断的な意見ですのでそのつもりでご覧下さい。
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「都市美」西村幸夫
 今回は、「都市美」都市景観施策の源流とその展開(西村幸夫編/学芸出版社)のご紹介です。

 朝日新聞でしたか、松原隆一郎氏(東京大学社会経済学教授)が次のような書評を書いています。

「13人の専門研究者が、欧米8カ国と日本について都市の美観政策の系譜をたどった論文集である。こうした形の企画は学術関係では無数にあり、一般読者が通読して楽しめるものは少ない。ところが本書は厳密な論考の集積でありながら、出版自体に極めて戦略的な意図が籠められている。それに心惹かれる読者ならな、ページのあちこちで発見と驚きに出会うだろう。
(後略)」


 ついでに学芸出版社のHPには、次のように書かれています。

「景観基本法の制定、歴史的な町並みや建築物への関心の高まりを背景に、景観施策が大きく動こうとしている。我々は、都市美とは何か、美の施策はどうあるべきかを再度真摯に捉え直すべきではないか。欧米各国と日本の都市美理念の源流に遡り、美の公共性がいかに確立してきたかを振り返るとともに、これからのあり方を探る。 」



 景観問題は、私自身がその仕事の場を「建築設計」から「都市計画」に転じた直接的な契機ですから、無関心ではいられません。
#現在、風景画など描き始めているのは、こころのどこかに景観へのこだわりが残っているからでしょう。
 しかし、当時は、人々に景観意識は乏しく、また、都市計画業務に携わるようになっても、景観を直接デザインできる機会は殆ど無いまま過ぎていました。その間、諸外国の事例等を研究している景観研究者の論文を見ても、私はあくまでも実践の場でどう活かせるのかを考えていましたので、景観研究は研究者の自己満足程度の認識しか持っていませんでした。
 しかし、こうしてまとめられてみると、これまでの部分的な知識が総括されて頭がすっきりします。これは恐らくこうした書籍にすべく発想した出版社と編者である西村幸夫氏(東大都市工学科教授)に力が大きいのでしょう。特に西村氏の明快で論理的な文章にはいつも感心させられますが、本書も西村氏の面目躍如といった感じがします。
#景観研究はこうでなくちゃと思ってしまいます。

 しかしそれでも、景観問題は、いつも課題整理であったり今後の方策の試案や素描であったりして、いつまでたっても本題に踏み込めないままです。これまで、都市計画という場で、景観に係わってきた私としては、こうした「研究的な成果」と「現場」があまりにもかけ離れているのを考えざるを得ません。現在の環境では我々専門家(と思っているのですが)不十分な活動しかできませんし、諸条件が整うのを待つには私の年齢が待ちきれません。

 それでもなお、本書は、小難しい研究をまとめたものとしては、とても理解しやすいものになっていると思いますし、私自身も、これからの景観は、こうした方向しかないと思います。
 是非、多くの人に読んでもらいたい一冊です。

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プロポーザル・コンペ雑感(3)
 最近、あちこちでコンペが実施されているようです。
 都市計画的なものになると行政が主催することが多いのですが、建築設計に係るものですと民間が圧倒的に多くなります。
 建築設計コンペでは(特にですが)、問題が指摘される事例は数えきれません。本日、電話で話した友人も、まさにその渦中にありました。

 民間の実施するコンペの最大の問題は、次のような点にあると思っています。

・審査する側の責任が果たされないこと
 つまり、コンペを実施しても公平・公正に審査を行い、入選案を決定するという、審査する側の役割・責任が理解されていないのかどうか、「最終決定をしない」ということがあまりにも多いということです。
 それは、審査員の中に専門家が不在であるだけでなく、審査という名目の中で審査員の政治的関係の解決を図ろうとしていることすらあるという情けない現実が多いと言うことです。
 さらにひどい場合には、決定案が絞れないまま(絞らないまま)競争入札を行うことすらあるのです。
 こんな審査する側の身勝手な都合に振り回される設計事務所は、たまったものではありません。こんな主催者の責任は、厳しく追及されるべきでしょう。

・素人判断が多すぎる
 今のようなインターネットの時代ですから、コンペを実施する際には情報に困りません。インターネットを検索すれば、コンペ要項案など簡単に作成できるでしょう。しかし、経験がないだけに、その文面の裏にある意味を理解しないまま、自分の都合の良いように判断し、動いてしまうわけです。
 しかも、そこには謙虚な姿勢が欠けています。ですから、不十分な要項に対して、疑問に思いながらも応募する側が泣かされることになるのです。

 行政の実施するコンペにも似たような例はいくらでもあります。私の知っている例(私が係わったものではありません)でも次のような具合です。

・事業コンペ(優れた事業計画を提案した団体を事業主体として選定するもの)でありながら、事前の調査が不十分であったために、コンペ自体が成立しなかった。
 コンペというのは実施のための準備をするだけでも、相当の検討が必要なのです。応募する側の条件を理解しないまま、要項さえあればコンペが行えると単純に思ったわけでもないでしょうが…。

・建築設計コンペでありながら、応募案の基本的な過ちを見過ごして入選案にした結果、完成した建物は、応募案とは大きく異なったものになってしまった。
 当然、問題にもなったわけですが…。

 こんな初歩的なミスは、素人集団である役所の内部だけで、恐らく他の要項を参考にしながら、安易にコンペを実施しようとしたものです。
#敢えて「素人集団」などと言う意味は、数年単位で異動を繰り返す役所の人事システムでは専門家が育つ筈もないからです。大抵の場合は、コンペなど未経験の職員が、他の事例を見ながら表面的な事項だけでわかったような気になって行ったものだからです。
#こうした税金の無駄遣いの責任は一体どこが負っているのでしょうか?


 行政が実施するコンペは、これまでは重要な事業に係るコンペが多かったわけですが、今後は、今回のように、数百万円程度の調査ものすらコンペで発注することになるでしょう。
 今まで経験したコンペで、私にとって、問題だと考えられるものを思い出しながら書き出してみましょう。

・調査の企画コンペを実施しながら、調査自体が消えたもの。
 せっかく頑張って企画書を作成し、入選もしているのに…。

・調査の企画を求めておきながら、同時に調査費用の見積もりを求めるもの。
 これはコンペなのか、見積もり入札なのか…。

・調査体制の提示を求めるもの。
 調査に係る人数が多ければ良いというのか。責任者の経験が豊富なら良いというのか。その経験って何なんだ。調査企画はどういう意味があるというのか。
 たかだか数百万円の調査で、どれだけの人間が動けるとお思いでしょうか?見かけの体制表示でだまされて欲しくはないものです。

・それ以前に、調査企画で調査すべき内容がわかるものなのかどうか、ということも忘れて欲しくないことです。
 営業勝負の会社なんて、同じような企画書を作成してあちこちにばらまいていることがわからないのか。わかっていても、発注する責任者としては、それがありがたいのか…。

 どのようなコンペを行おうとする場合でも、私が着目したいのは次のような点です。

・発注者側が、このコンペで本当にその業務に必要な業者を選択しようとしているのか。その覚悟が感じられるか。

・そのために、本当に、調査の企画内容で審査しようとしているのか。

 少なくとも、他の事例を引っ張ってきて、それでコンペを実施し、いい加減な判断で決定する。それで、公正・公平に判断したなどと言って欲しくはありません。
 先日の記事で、武田晴人東大教授が様々なアイデアを述べていますが、実態は、当事者の責任逃れで実施するようなコンペも数多く、武田教授が期待する以前の問題が余りにも多いというのが、私の率直な意見です。

 では、コンペに代わる方法はあるのか?と言われれば、私は無いわけではないと思います。
 つまり、過去の実績を重視することです。調査費とともに(つまり、その業務をどの程度の費用で実施しているのか?ということは重要なのですが、終わってしまえばあまり考慮されないのはどうしてでしょうか?)業務成果の満足度を他の自治体や、同じ役所内でも過去の経験者などから聞いたりして、そうした中から担当者(数名)を中心として、責任を持って判断し、特命発注することです。能力があって、誠実に対応してくれるコンサルタントを見出すには、そうした努力が必要でしょう。
 そして、業務を動かす際には、業者まかせでなく、業者とコミュニケーションを密にしながら、きちんと希望を伝えながら業務を進めることです。


 しかし、今の時代では無理でしょうねぇ。今までだって、そうやって発注してくれる例は極めて少なかったのですから…。

プロポーザル・コンペ雑感(2)
 コンペの問題を書いていく前に、より具体的な例について触れておいた方がその後の理解を助けてくれるかもしれませんので、私が係わったものについて書いておきましょう。

(1)○市のコンペの場合
 ○市の土地利用調査に関しては、もう20年ほど断続的に受託してきていました。それもすべて特命に近い形式(注)でです。そういう意味では○市に関する実績は十分だと思っています。
 実は○市は、つい近年まで、この特命に近い形式で発注してくれる貴重な自治体でした。それで私にとってもおつきあいしたい自治体であったのですが、最近は、他の例と同様に、基本的には競争入札、あるいは今回のようなコンペ方式の採用になってきました。
 今回の仕事は、過去の実績・資料・データの蓄積状況からすれば当社を特命にしても不思議はないと思っているのですが、近年は長年同じ業者を選定することに却って疑問を差し挟まれる原因になるのです。つまり「癒着じゃないか!」というわけです。
 そういう経緯もあってのプロポーザルコンペだと思いますが、求める資料、審査体制等についても疑問点はなく、要項そのものには特に大きな不備はありません。強いて言えば次の2点が気になることでしょうか。
・要項で求める資料が、アイデアを求めるものではなく、「本業務に対する取り組み意欲を見るといった」ものになっていること。
・審査結果公表の日程が示されていないこと。

 形式的にはプロポーザルコンペですが、もともと本業務は、土地利用制度に係るものであり、市の職員の方がこの点に関してはかなり詳しく、担当者の議論や関連部局によって構成される市の内部会議に基づき、それをストーリー化するとともに、学識経験者(つまり大学教授等)によって構成される委員会への提出資料のとりまとめと、諸会議の議事録作成等の作業が大半を占めるものなのです。つまり、コンサルタントに特別の技術・アイデアを求めるものではないのです。だからこそ、意欲のあり方を見ようとしているのかもしれません。
 最近の私たちが「調査もの」と呼んでいる業務の多くが、雑用の比重がかなり高いものになってきており、今回の業務が特別というわけではないのですが、今回は制度に係るものであるだけに、(業者に比べて)圧倒的に市職員の方が情報量が豊富だということに特徴があります。つまり、市の内部にそれをこなす能力さえあれば、もともと市の中で処理すべき仕事だと思うのです。私は、以前、今回の業務の前段(とも言っても良いでしょう)の業務を受託した時、その思いを特に強くしていました。
 そういう意味もあって、委託者は、指名した4社であればどこに受託してもらっても良かったということのようですし、私にとっては、そういうコンペに応じてまでそういった「雑用仕事」を受けるかどうか考えざるを得ない状況でした。

 結論として、私は、これまでこの仕事に携わってきて初めて、辞退の趣旨でプロポーザル提案をしました。過去の膨大な資料等の蓄積は使えませんが仕方ありません。必要とされていないのですから…。
 私の今後の仕事も、大きく変わらざるを得ませんが仕方ありません。もうその覚悟があるからこそですし…。実は、私にとっては、この例のように、せっかく受託しても頑張りがいのない仕事が多くなっていることも、この業務に対して魅力を感じなくなってきている理由の大きな一つでもあるのです。
#もともと、このブログ自体がそういう覚悟のもとに書いていることなのですが…。

注:様々な方法がありますが、ここでは敢えて述べません。


(2)△市のコンペの場合
 こちらは、市内にある県有地の土地開発事業に関連して、事業協力者を求めるコンペですが、内容的にはコンペと言えるかどうか…。つまり、ゼネコン・コンサルタントなどにプロポーザルの応募が要請されたということからも理解できるように、過去の類似事業の実績を見るためだけのような内容のものでした。
 特に問題としては、次のような点にありました。
・事業計画が市の内部で検討済みであり、既に政策決定されているとのこと
 これは、敢えて言えば、事業者が起こしやすい間違いであり、その内容を見てもおかしな点があまりにも多いのです。こうした内容こそコンサルタントを含めた検討が必要な事項である筈なのに、コンペのスタートから間違っているのです。政策的な判断が先走っているのです。
 政治家や、事業推進優先のある種の事業者は、彼らが係わった期間さえ良ければそれで良いのでしょうが、その負債をずっと背負わされる市民はたまったものではありません。そうならないように考えていくべきなのですが…。
・過去の実績を中心に見るものであること
 こうした実績中心のプロポーザル提案を見て、審査する側はどうやって事業者を判断していくのでしょうか?それにしては、この事業のあらゆる分野に係わるものでありすぎますし、何よりも応募を求める対象が多すぎましょう。もう少し絞り込めなかったものでしょうか?
#私自身は他の応募事業者の協力チームでの応募ですから気楽なものですが…。
・日程が明記されていない
 コンペを実施するからには、主催者側の責任として、決定までのプロセスを明記すべきであると、私は考えるのですが…。

 結果は協力事業者には選定されませんでした。
 そんな結果は、最初から期待していなかったことですからどうでも良いのです。それよりも、この地区の10年後がどうなっているか、楽しみにしていたいと思います。

(3)□市のコンペの場合
 これは、逆に発注者側(コンペの実施・審査側)として係わった事例ですが、市が所有するある土地の民間事業者の選定を行うものでした。
 コンサルとしては守秘義務があるため、「望ましい結果が得られて無事終了している」とだけ書いておきましょう。
 コンペの実施から審査に至るまで、私の目で見て問題点は見あたりません。ただ、「事業に係わるコンペのように大きなお金が動くものには、様々な利害関係者がいるわけですから、そうした点への配慮なしにコンペを動かすことはできない」ということだけ、書かせていただきましょう。

JRは所詮民間企業か?
 本日、こんな記事が掲載されていましたので、関連して書きたくなりました。
●JR東日本が改装、新潟・村上駅を大正ロマン風に。2005/06/27, 日経流通新聞MJ

 【新潟】東日本旅客鉄道(JR東日本)は村上駅(新潟県村上市)の外観を改装する。窓に木枠をはめ、明るく薄いブラウン系の色を使うなど大正ロマン風をイメージした。村上市の町屋再生に取り組む地元の「むらかみ町屋再生プロジェクト」の意見を聞きながらデザインを決定した。


 また、近年、「中心市街地の衰退」に対比するように、「駅ナカ」が活況を呈しているという記事もあります
 そんなことを念頭において、お考え下さい。

 私はこれまで、いくつかの駅周辺整備プロジェクトに係わってきているのですが、その際、地元自治体がどれほどJRへの協力を要請しても、JRがまちづくりに協力的であったことは全くありません。それどころか、周辺の区画整理事業についても自社の利益を最優先に求めるばかりです。
#例えば、区域内にいくつかの土地が散在している場合、それを集約して駅直近に換地することを求めるなど、です。
 駅ビルの建設が採算ベースに乗ると判断すれば積極的に建設し、そこはJR関連企業が経営し、JRのOBが配属されていきます。
 駅ビルはもちろんですが、駅周辺の整備に際しても、JR関連の事業には、どれほど公共的意義があるものであってもJR関連の設計コンサルタントが専属的に使われます。こうした取り決めは地元自治体とJRで協議されることですから、一般市民の理解の及ぶところではありません。
 駅ナカの活況については、つまり、それまで法的に商業利用が規制されていた空間(駅構内)がJRの独占的(不動産)経営の場になっているだけのことなのです。そして、中心市街地の衰退は、それにも少なからず影響を受けている筈なのですが、JRが中心市街地活性化について、何か協力をしているという話しも殆ど聞いたことがありません。

 上記記事について、「これは、まちづくりに協力していることではないのか!」という意見をお持ちの方もおられるかもしれません。しかし、プロの目から見れば、ハッキリ言ってJR関連コンサルタントは、JR施設に詳しい技術者かもしれませんが、これまでの経験から判断しても、まちづくりについてはとてもお薦めできるレベルにはないのです。それは、今も各地につくられている新駅の浅ましいデザインを考えてもらえれば十分じゃないでしょうか?
 恐らく、村上市の例も、趣旨はともかく、出来上がったデザインは「これがそうなの?」と言いたくなるようなものになっているのだろうことは容易に想像できます。もっと町のためを考えるのであれば、公開コンペを実施するなどしたら良いのです。
#もちろん、例外もないわけではありません。公共性はともかく、赤湯駅、湯布院駅などは、著名建築家設計の駅舎であり、優れたものだとは思いますが…。
#ただ、それ以上に、何の変哲もない味気ない建物や、「この町のシンボルは○○だから、駅舎を○○色にした」と言うような低レベルの発想による悲惨な例が多すぎるのです。


 あなたがもし、「駅」は、民間企業であるJRのものだから、それをどのようにしようとJRの勝手だとお考えになるのであれば、これ以上書いても無駄かもしれませんが、私に言わせれば、「ある意味では、自社や系列の利益導入ばかりに熱心で、どうでも良い部分だけ協力している風を装っていても仕方ないでしょ。今は、民間企業だって、それほど自分の利権に固執していない時代だよ。もう少し協力的だよ。」と言いたいものです。
 もしJRにもう少し社会的責任感を感じる気持ちがあるなら、駅ナカの活況を町に波及させていくような工夫や協力をもっと積極的に考えていることでしょう。駅が公共的なシンボルであると考えるなら、乏しい能力の系列会社にこだわらず、もっと社会に開かれたデザイン選定の方法を考えているだろうと思います。

 「JRというのは、所詮、自己利益しか考えない民間企業よ。」であって良いのでしょうか? JRの関係者にも、市民・国民にも考えて欲しいと思っているのですが…。

コンペ方式に可能性:経済教室
 「まちづくりの実践」について書き始めたのですが、橋梁工事の談合問題に関連して、日経新聞経済教室(2005/06/16:武田晴人東大教授)に標記のような記事が掲載されましたので、今回はそれについてちょっと書いてみます。
 内容は、「談合がなくならないのは、発注者が工事内容などについて十分な情報を持たないため、受注者との間に相互依存関係が生まれるからかもしれない。情報の非対称を改善するためには、コンペ方式などにより発注者が民間の知恵を活用することが求められる。」といったもので、価格と品質の関係からこれを考え、結論的には、「納税者が納得できるようにするための方策として、透明性が高く、公平な制度にしなければならないが(ここまでは誰でも言える)、そのためには、発注者側が謙虚になって、発注する工事の条件等すべてを知り得ないことを認め、十分な品質を確保するために知恵を出し合う仕組みをつくることが必要である。そのような方式としてコンペなどの方式を検討していったらどうか。」という趣旨です。
 そして、最後に「コンペ方式を試してみる価値がある」としながら、「発注者側は、入札の場を準備すれば良いというような現在のぬるま湯状態から抜け出さないと、この制度についていけない。ねばり強く価格の交渉をし、品質の保証を求めるネゴシエーターでないと、この制度は機能しないかもしれないからである。」と述べています。

 記事の中で、コンペ方式についていくつかのアイデアを述べられているのは嬉しいのですが、これを読んで私が考えることは次のようなことです。
 コンペ方式について、やり方は問題が残ることが多いにしろ、そんな程度のことは発注者側は十分わかっている、と思っています。わかっているのに、では何故それが動かないかと言えば、「そうした苦労・努力をするモーメントを発注者側が持っていないから」としか言いようがないのです。つまり、「意志がないところでは、どのような良案も生かせない」と思うのです。
 私個人としては、発注者側(私の場合行政側)をこうした方式の採用に向けるためには、
・人事制度の中に、前向きに取り組む努力を評価出来るシステムを考慮していくか、
・具体的な事例を積み重ね、発注者内部にも「何故そうした事例があるのに、それを採用しないのか?」という批判の声を高めていくしかない。

と思っています。

 そうなると、行政の事例主義(事例があれば動きやすい)が生きてくるのですが、また、それはそれで別の問題を抱えることになるところが何とも…(^^ゞ。
#それを書こうと思ったのが、このシリーズだったのですが…。
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